角部屋日記

あったりなかったりすること

きょうのおきもち

書くことで癒やされることが即効性抜群特効薬だったら多分もうちょい楽に生きられるんだろうなとか思いつつ、遅効性でもいいし僅かでもいいから未来の自分が自分のテキストに癒やされる時が来ればいいなと思いたち書く。

 

ある本屋さんから依頼をいただいて先日まで短いテキストを書いていた。(告知できるタイミングが来たら告知するのでチェケラしてくれたら嬉しいです〜)

字数制限の中で3篇の短いエッセイを書いた。その1つに「3重のカミングアウト」というタイトルを付けた。文字通りの内容なのだけれども、書きながらと書き終えて割とじわじわと自己のテキストが自分に向かってきている感覚がある。

いわゆる”Coming out of the closet”な状態と”In the closet”な状態との中間として、”In the room with Close friends”みたいな状態が僕にとってはしっくり来ているいくつかのことがある的なこととかをつらつら書いている。

実際に僕の部屋には信頼する他者が来訪してくれて、”Coming out of the closet”とまではいかないまでも僕自身を物理的にも心理的にもオープンにしている空間になっている。

 

という前提があって、カミングアウトなんて考えてこなかった今までなのに、テキストを書いたことをきっかけに急にそれが幅を効かせはじめている。そしてそれはカミングアウトに向き合ってみることが前提みたいな感じで。

これはあくまで肌感覚だし、僕もたぶんそうやって受領してしまっているんだけれども、”当事者”としての発信の方が他者が気にしてくれるんだろうななみたいなあれが最近ある。いきなり反例だけれども、直近の入管法や永住権の問題については当事者の声はガン無視されている感じですげえ嫌。って書いてみてあれだ、くそな社会全体を見れば、いみわからねえ専門家>声のでけえ排外的な権力集団>当事者>アライアンスかもしれねえ。前者たちくそなのはあたりまえで、最初に言いたかったのは一見アライアンスに見えるクローゼットよりの当事者の発信が持ち得るかもしれない可能性のことで。

良心的な人々はもちろん当事者の声に真摯に向き合ってくれているだろうけれど、一見アライアンスに見えるクローゼットよりの当事者の声ってどうなんだろうってことである。その主張には当事者としての主語が不在になるだろうし、切実さに直結する語りもクローゼットに近い状態ゆえにママとはなれないだろうなと容易に想像がつく。

クローゼットに近い状態として当事者性が一見して確認できない場合でも、その声は切実かもしれない。それにどれだけ耳を傾けることができるだろうか。(僕自身がその性格を有しているからもしかしたら聞いてほしいという気持ちのあらわれかもしれない)。

 

ちとうまく言葉にならねえ。

 

クローゼットでもオープンでもない状態にいると思っていたけれど、わりといまちゃんと苦しみの手前にいるかもしれないなである。

さんざん叫んできたはずなのに、叫び方がわからなくなっちゃたみたいな感じ。

(けっしてネガティヴではない)曖昧さを是としてきたし、それ自体は今後も変わらないんだけれども、ちょっと膝を抱えたくなっている。

 

ぬんぬんだ。今日元気からの疲れちゃったジェットコースターだったからかもしれない。明日にはケロっとしているかもしれない。

 

いっこ確かなことは、大切な友人たちのテキストや発言、一挙手一投足、できるだけ取りこぼさないようにしていきたい。友人たちのそれができたならばもっと多くの人に対してもそうできるような自分でありたい。僕がやっていきたい誠実さのひとつとして。

 

中途半端ばっちこいなので今日はここまで。

 

今日の救われ

1. 一目惚れした立体作品が買えたこと

2. はじめてぐうかわなぬいぐるみを買えたこと

3. デモでマヴとフィジカルハグしたこと

4. マヴとエアリプでラヴしたこと

5. 優しくなりたいという願いを「なりたい姿でなれたらいいね」と願われたこと