角部屋日記

あったりなかったりすること

メモ『野生のしっそう--障害、兄、そして人類学とともに』 猪瀬浩平

『野生のしっそう--障害、兄、そして人類学とともに』
猪瀬浩平、ミシマ社

ブクログの登録順を遡った限りでおそらく僕は紀伊國屋書店でこの本を手にしたのだろう。一緒に買った本は以下で、我ながらいい買い物である。
『ひとでなし』星野智幸
『スピン 第9号』
『ミャンマー証言詩集 いくら新芽を摘んでも春は止まらない』コウコウテッ
『感情の海を泳ぎ、言葉と出会う』荒井裕樹
(Twitterの僕だけ#の”#ウェルカム本棚”続けていればよかった)

 

尊敬している友人のポストがきっかけで手に取った気がして2年弱、積読だった。他の人と本を持ち寄ってあーだこーだしようで、読むかになって読み始めた。そこそこ長い無職期間と正規雇用をいったりきたりしながらの人生、6年ぶりに連日出社となった初日の通勤電車で読み始めたけれど、労働と行き先の決まった電車に絡め取られながら読むのはなんか違うとなって、結局、自室の床のうえで身体をぐにゃりながら読み進めた。

 

普段の僕は読書の時に節操なく付箋を貼る。何もせずに読み進める時もあれば、黒のボールペン、シャープペンシル、赤のダーマトグラフで線を引くこともある。あーだこーだの人は本にドッグイヤーをしていた。ドッグイヤーだと行ではなく面(ページ)への痕跡になる。面なので、読み返しの時に過去の自分を遡る、あるいは探る的なことを言っていて、なるほどなな他者身体と時間感覚だと思った。ちょっとやってみようは慣れ親しんだ自身身体からのわずかばかりでの逸脱であるかもしれない。

 

だからか、今回の読書はいつもの自分(付箋)とまだよく知らぬ他者(ドッグイヤー)になった。たくさんの付箋と思いの外増えたドッグイヤー、表紙を表にした時に左肩が浮いている。付箋の記憶はたどりやすいので、今回はドッグイヤーを辿ってみる。あまり時間が経っていない過去だけど、少しでも過去の自分と日常の断層はどんどん深くなっていくから。

 

最初のドッグイヤーはP.53。慣れなさのためらい故か、意外とページを経ている。

P.53「それはまた、障害のある人とない人の違いではなく、本来、誰であっても意思疎通などできていないかもしれないと想定しながら、それでもともにあることができると考えることである。」

P.61「そんな「正気のsane」空気があったから、兄はご機嫌だったのだとわたしは感じる。」

P.68「障害のある人がいると思っていない場所に、障害のある人がいる。そこで起きた出来事を障害を理由に説明しない。自分たちと性質の異なるものとして説明するのではなく、自分と共通するものとして語る。もちろんそれが正しいのかはわからない。」

P.70「・・・ただ単に、「自分の存在に気づいて欲しいだけかもしれない」ということを思った。」

P.140「兄は突然大きな声をあげ、飛び跳ねる。カリヤサキさんはそこに兄のダンスを読み取り、音楽ライブでダンスする自分とつなげ、自分と兄がのっていくリズムの違いを見出していく。」

P.142「・・・その一見「あたりまえなこと」の背後に、人を恣意的な基準で分断し、それを納得させていく管理のシステムが存在することです。そして、そのシステムを揺さぶっていく端緒は、生々しい感情であり、身体感覚です。「こうこう、いく」と兄が言い続けることが、兄弟を、家族を、高校を、教育を、そして社会を揺さぶり、それまでと違う回路で、人と人、人とものごとを結び付けていきました。」

P.165「わたしと同じように、車内で隣り合わせる人びとが同じように孤独な生を行きていることを想うとき、孤独であるわたしと孤独である隣人との間に、かすかな連帯がうまれる。オジェはそれを「孤立なき孤独」という」

P.177「だからとんでもない力を解き放つのは、兄自身であり、わたしや周りの人間ではない。」

P.182「兄の行為を物的欲求で捉えるのも、それすらない異常な行動と捉えるのも、それは「健常者」を自認する人の傲慢に過ぎず、そこに知的欲求ーー知への勇気ーーを読み取ったときに、わたしたちは同一種の人間の多様性ということを、本当の意味で理解できる。」

P.197「・・・「俺の話を真剣に受け止めてください。こういう自体がなぜ起こったかわかりますか。障害者の言葉を聞かないわけだよ。聞かなくてもいいというばかりに、差別ということをやったわけだよ」と叫んだ。」

P.221「・・・ついにわたしは、「あなたの言動の一つ一つが父の尊厳を傷つけている」と抗議した。」

P.234「誰かの解釈や思いやりや差別によって、言葉を与えられるよりも前に、全身の、全力の運動によって自分自身の意志を表す。それはろくでもない世界から逃げることであり、新たな世界を求めることでもある。走り出す身振り自体が、新たな世界のあらわれそのものでもある。」

P.243「わたしが感じた苦痛と、兄が感じた苦痛は別のものであるが、どこかでつながっている。つながっているところと、ずれているところと、その両方が重要である。」

P.247「風がビュービューと吹けば、ときに兄は跳びはねて風と一体化する。兄は世界を嗅ぎ、動き、感じる。」

P.265「兄が世界を撹乱しているのではない。兄は〈誰か〉や〈何か〉と世界を構築し続けている。」

P.268「兄の経験や、兄の思考の仕方を追いかけながた、わたし自身の思考の仕方が何かを問い直す。」

P.279「わたしが生きていることは、本来、ヒリヒリとした自由の中にある。」

P.280「しっそうする兄は、街に迷っている。世界に迷っている。さまざまなことが理不尽に起こり、彼の存在を勝手に意味づけられてしまう世界で、それでも彼は世界に身をさらす。」

 

ドッグイヤーを書き出してみて、冒頭に書いたドッグイヤーの機能を自ら剥奪してしまったことに気づいた。これでは付箋と同じである。むずむずである。

 

ここからは脈絡なく。

 

”野生”だけを取り上げれば、マヴとの初対面を思い出す。高円寺で終電をなくして、僕の部屋のある東中野まで歩く道すがら、出会ってまだ数時間だし散々酒を煽って、しかも多分僕はまだよそ行きの顔をしてはずなのに、しかも初対面で彼は僕をこう描写した。「繊細さと我の強さが同居した空気感があってものすごく寛大で優しい凶暴な野生動物」と。理解できない他者として突き放すでもなく、わからなさの曖昧さを許容するその描写に僕から彼への信頼はじゅうぶんなものになったのをいまでも鮮明に思い出せる。

 

私ははじめ、その紹介文から、”きょうだい”としての語りを前提に読もうとしていた気がする。そう読むことはもちろん可能だが、それ以上?に、”きょうだい”としての語りではなく、兄と弟(著者)という関係がどこまでも続いていく。

 

これは極めて個人的な感覚なんだけど、”間”を”あわい”とするの、ずっとうっすら胡散臭い気持ちがある。

 

家族。一緒に暮らしたのは、母、父、兄、姉、祖母である。共働きで忙しかったおやたち、年の離れたきょうだいたち、好きになれなかった祖母。亡くなった祖母を除き、かつて一緒に暮らした人々とは数年にいちど、しかも一瞬会うくらいの距離に落ち着いている。一人暮らしをはじめて12年以上、世界をともにし、線を絡めあう他者は僕にとっては友人たちがそれである。それぞれの生がある友人という関係のなかで、僕はその世界や線をもうちょい頑張っていきたいかもしれない。

 

土。もらったナスとピーマンと紫たまねぎ。それらが育った土と育てた人びとのことを聞いておけばよかった。

 

言葉の絶対さに希望すると同時に、相対的に言葉を信頼しきってもいない。言葉は尽くせないものだと思っているし、その絶対性に依るほどには私と他者の地平が同じではないと感じている。だからかもしれないが、それぞれの歩みを無理にあわせずに散歩をしたり、料理をして一緒に食ったり、相手の心臓の鼓動に耳を傾けたり、夜の公園の遊具で遊んだり、本を読む姿を眼差したり、踊ったり、そうしながら私は少しずつ他者を知ろうとしてしまう。

 

そして私は沈黙を選択することを躊躇わない。何度かの問いかけに対し僕は沈黙で応答した。彼の不可解な表情を見て僕は沈黙を破り「私には沈黙する権利がある」と応答した。

 

「闘士」について知っていきたい。

 

「兄」と著者(と私)。著者の言葉によって描写された「兄」の姿(それは生き方かもしれないし、振る舞いかもしれない)に共感というか自分との共通点というか、そういうのを終始感じていたように思う。障害者(この語は知的障害や精神障害、身体障害や内部障害など多種多様なそれらを時に見えにくくしてしまうこともあるが)であること、としては「兄」と私は遠くながらも地平を同じにしているという気持ちがある。とはいえ、健常者っぽくほとんどの場面で社会をパスできてしまう私でも、本の中で描かれる限りの筆者では微妙にその地平にズレがあるように感じる。学者であり、「弟」である筆者とも私の地平は同じではない。それでも生活や社会から向けられる眼差しや態度としては、私は筆者に近いところにいるだろう。けれど、「兄」が身体で表現することは本にかかれている筆者の感覚よりも「兄」の感覚に自分の感覚や過去を重ねられた。

 

闘争の歴史と今を生きる多様な他者たち。私は闘える側にも、闘争のイシューの側にもいれてしまう。マジでクソなこの社会、一緒に生をやっていく人々との関係性も、ちっとでもマシな社会のためにも、生活も闘争もやっていきたい。

日付関係なし(260708):あなたの(あるいは僕の)本棚

また皿を割ってしまった。土と竈門の神がいたら平謝りである。てか、つくってくれた人にめっちゃごめんである。皿への敬意?で目止めを渋っていたこの間かったぐうかわな器たちを一気に目止めした。鍋に入り切らないやつはもうちょっと観賞用。

 

ダッシュで30秒の本気の最寄り本屋で「ぢかれた〜もう無理かも〜」をちょうどいあわせたダチにちょっと愚痴った。すこし気力回復。

 

たまに店番をしているのでだいたいどんな本が置いているかは把握しているけれど、開いたことのないのはたっくさんで、たまたま手の届くところにあったZINEを開いた。Netflixの恋愛リアリティなんちゃら『BOYFRIEND』に出てるらしいにいやんのZINE。Netflixは登録していないし、恋愛リアリティとかキモいから観てないので素性は知らんのだけど、ZINEの巻末で本の紹介をしていた。その中の一冊に『メモランダム古橋悌二:ダムタイプ』があった。ああ、僕視点で真っ当な人だと思ってしまった。思ってしまったなと思うと同時にまあでも思うよなである。久しぶりに眼にした「古橋悌二」の名前。最近はダムタイプの上映とか展示とかちょくちょくやっているから、まあ知ってる人は知っているだろうだけれども、本自体は2000年の出版だし、よっぽど興味がなかったら手に取らないように思う。

 

どんな本を部屋に置いているか(いったん図書館ユーザーは置いておく)、それは僕にとって結構重要なことである。どんな経緯かは知らんけど、なにかしらのきっかけやら理由があって、その人の本棚に納まったであろう本。どんなにわずかでも、その本の要素がその人の中にある。「ああ、この本が本棚にあるならこの点において信頼ができる」、安直なのでそんなことを思ってしまう。

 

けれど僕は人の本棚をほとんど見たことがない。そもそも他者の部屋にはいることがめっちゃ稀である。直近3年とかを思い出して、他者の部屋は4部屋くらいだと思う。逆はめっちゃあって、この1年だとしても僕の部屋に来た他者の人数は数えきれない。

 

まあ本棚じゃないにしても、たとえばSNSにアップされる書影。あんま人のポストそんな積極的に見ないしだけど、それでも眼に入った時に、静かな信頼を置いている。他者がどんな本を持っているか、読んでいるか、それは僕にとって希望になる。

 

ああてかあれか本屋もだな。どんな本を置いて、どんな本を置かないでいるか。まあそれに近い。

 

もしよかったらいつかあなたの本棚を眺めてみたい。

 

ちなみに僕の本棚:

メモ 260426

他者カンバセーション:応答に窮しないことだったらなんでもペラペラ喋るけれど、それと同じように応答しない権利を行使するとビビられることがあって、いやいやなんでなんでも応答するおもてんねんである。

あとあれだ、聞かれてないことを喋っていいのかいまだにぬんぬんしているけれど、ここには聞かれてもないことをペラペラしているので、そんな感じのマインドをもうちょいやっていきであるかもしれない。

 

==最近のメモ==

・おとなげ/だいにんき:大人気

・Duo3.0でいまだに思い出すフレーズ:

You must respect the will of the individual.
 個人の意志は尊重しなければいけない。

You should be fair to everyone regardless of national origin, gender, or creed.
 生まれた国、性別、信条に関係なく、誰に対しても公平でなくてはならない

Equality is guaranteed by the Constitution.
 平等は憲法で守られている。

・トライバリズム

・IGで一瞬みた”プラオ”。バスマティライス使っているだけの情報で調理してみたらちゃんとうまくて、お手本しらんが満足している。

・鯵がうまい。ブリサしもいけるなであった。

・おすすめ本は喫茶店でも電車内でも路上でも見せびらかすにかぎる。

・ふきを白だしで煮ると汁の時点でふきの香りで最強になる。

・常:でっけえ声だしたいし、踊りたい

・5年に一度くらいの頻度でこれがロマンティック感情か?になるが、先日2日続けて過去ロマンティック感情対象だったかもな人A,Bが夢に出てきてぬんぬん!(IGでたまたま見かけてしまったのが恐らくきっかけなので、夢に直結しすぎ!)

・シングルサイズに3人で川の字で寝てた過去、今更ながらどうしてたん?である。

・ナンプラーとウェイパーとトマトのスープ、何を追加しても揺るぎない美味さ。

・そのうち考える:孤独まっしぐら30代!

・デモ用の鳴り物を調達しなければ

・滑り台ミスって太ももにできた手のひらサイズの痣、いつの間にか消えていた。

・健康≠健常≠健やかさ:それぞれのフィット感

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次の連休、だらだら飯をつくり、だらだら飲み食いするやつをやりたいけれど、人の誘い方が未だにわからない。がんばれわたし!

 

今日の僕的(音楽編)

くまま - "くままは屈強" [Official Music Video]
https://youtu.be/wiDju0Rqyfg?si=fPJDS7FvZiwowvcX

 

今日の僕的(書籍編)

『みんなこうして連帯してきたーー失敗のなかで社会は変わっていく』
ジェイク ホール 著
安藤 貴子 訳
天野潤平 編集
柏書房

www.kashiwashobo.co.jp

260405_朝

昨夜はワインを飲みながら、本棚の整理をしつつ、あれやこれや考えごとをしていた。3時半頃、布団に入った気がする。

 

7時過ぎに起床した。昨夜のテンションを引き継いだままだったのでもう一眠りをと思ったが眠気が眠っていた。シンクの前に立つ。なんでかよく分からなかったんだけど、昨夜の飲みかけのグラスを倒してしまった。ああと思う間もなく、グラスが床に着地してワインをまとったガラス片になった。だるいはじまりである。滅多にみることのない景色を少しだけ眺め、キッチンペーパーで大きなガラス片を片付ける。ワインをまとっているので視認しやすかった。大方ひろい終わってキッチンペーパーでワインを吸う。掃除機を取り出してがあがあやって、普段あまり履かないスリッパを履いた。

ちゃんとだめな一日のはじまり。普段なら酒を入れそうなタイイングだったけれど、本日は予定があるので思い直して、直火OKな透明な茶器に水とカルダモンを5粒いれ、火にかけた。煙草を吸いながらそれを眺める。なかなか沸かない。Youtubeで最近お気に入りの『くままは屈強』を再生する。ちゃんと気分が元気に向かった。くままラヴい。

散らばる本たちからいくつかをピックアップしモーニングのため家を出た。ちょっとでいいから部屋をでよう。できてしまえば何でもないことだけれども、ちゃんと難しい。まあけど今日の僕はできてしまったのでちゃんと偉い。

VIDEOTAPEMUSICのアルバム「世界各国の夜」を聴きながらいくつかの本をいったりきたり。

『人魚と林檎』眞鍋せいら
頭から読み始め、ああ読める歌人だと少しばかり安堵を憶え、付箋を貼り続けた。1/3くらい読んで「ああ、このまま読むのはもったいない」となり閉じた。背景にむかし友人とした会話:「短歌って適当に開いて、お!ってなる感じで読みますよね〜」。そんな贅沢を未来に残した。

『藤井稔詩集』藤井稔
もらった詩集。2000年に生まれ、早稲田で学び、2025年に自死した詩人の詩。いろいろ思うことはあるんだけど、いくつかの詩を読んだあと、改めてそれぞれの詩の最後の一行だけを順に読んでみた。それだけでもたちのぼる輪郭があって。

『石としてある 第3号』本屋メガホン
上述の眞鍋せいらにエッセイ「「見えない」存在とクィアなともだち」を読んだ。短歌から感じた「読める」は確証になった。読めるし、わかるのである。
(第1号に自分のテキストがあるせいで、なかなか読めていなかった『石としてある』、やっと読み進められそうな第一歩)

『ハンセン病 ジグざぐ』
1990年代うまれ数人で知らない・知りたいを出発点にフィールドワークをする記録。知るのプロセスや関心あるイシューに対してどんなことを思うのか、よい。

 

メインカードの引き落とし先を給与振込される口座とは別のやつにしていて、カードの引き落としができていないよメールが来た。毎回、口座Aから口座Bに金を移動させている。めんどいのは明らかなんだけれども、たった一回の引き落とし口座の変更ができないまま8年である。帰宅する前に金をおろしてコンビニで決済?しなくてはだ。

ここ数ヶ月、女王蜂と柴垣竜平とイ・ランだけを聞いている。そこそこ好きなミュージシャンはいるけれど、特定の人らだけしか聞かない期間がそこそこある。怒りをあらわにすることも、涙も流すこともないくらいに社会生活と距離がある日常をしていて、誰かのテキストとライヴだけが涙が流れるきっかけになっているのが最近である。ちゃんと閉じた日常をしている。ここでいうちゃんとは別に良い意味ではないかもしれない。

友人が書店をはじめた。祝開店パーティ、知らん人が集団であって、むずむずしてきちゃって乾杯だけして辞去した。数分の滞在。家までもすぐだったから助かった。めでたいの気持ちより、いたたまれなさを救ってくれる家までの距離、めでたいを優先できなさ、ため息を付きたくもなるが、まあでも僕だししゃーないかでもある。

大学を出て、新卒の会社を辞めて、Twitterを開かなくなり、Instagramを開いても他人のストーリーとかを見るでもないし、LINEもたまにしか開かないし、開いても返信しないをしていたら、めっきり他者とコミュニケーションしなくなってしまっていた。フルリモートなのでほっといたら2週間とか1か月とか、余裕で他者との有機的なコミュニケーションをしないまま時間が過ぎていく。他者とのコミュニケーションなんてうまくいく感覚を持てたことがないけれどより一層、である。

自身のコミュニケーションを鑑みようとしても他者のそれをよく知らなくて参照できないかもしれない。ふたりで会うことが基本にあるので、他者が私以外に対してどうやってコミュニケーションをしているかを知らないし、試行錯誤が難しい。積極的に他者にはたらきかけるコミュニケーション、どうやって習得しているんだろうみんな。ここ数年を振り返ると、好意や広義のセックスは邪魔かもしれないをなんとなく感じはじめた。とはいえ参照先が私しかいないので、見当違いかもしれないけれど。それでいうと他者とコミュニケーションする/遊ぶの選択肢が少なすぎたかもしれない。私の部屋すぎた。あと、私、興味持たれる要素がなさすぎるなである。自分自身を絶対的にみるのであれば特にネガティヴがないのだけれども、他者という要素・コミュニケーションという客観が発生した瞬間に私は何者?でしかなくなる。とはいえ、他者の中に私が(私の手の届かない形で)輪郭を持ち始めるのも、なんとも言えないねっとりとした忌避感があるかもしれないのだけれども。

久しぶりで、はてなブログでの身体を忘れてしまった。書いているうちに慣れる/思い出せるだろうか。

 

そろそろ八朔の時期が終わってしまいそうで残念だ。最近の果物は圧倒的に八朔だった。甘すぎもせず、そこそこに酸味がある。しっかりとした実なので、皮をむき、筋をとり、薄皮をむきという食べるまでの工程が多いのも愉快だった。そういう集中できる時間が好きだし、私の生活が欲していたものだったような気がする。剥いては食べをする時もあれば、一気に剥いて、一気に食うの時もあった。端っこが水分を失いつつあるすかすかの柑橘が好きだ。小さい頃は母が剥いた柑橘を何の気なしに食っていた。グレープフルーツをひとたま、スウィーティーをひとたま、りんごもひとたま。5人で食うはずなのに圧倒的に果物を食っていた気がする。大学生の頃は果物は贅沢品だった。この冬は一日に八朔3個、500円分を毎日のように食っていた。ひとりで生活をしているので、自分で剥いて、自分で食っている。人が剥いてくれた柑橘、最後に食ったのは生家で暮らしていた当時が最後だったと思う。私が剥いて八朔を向き、人の口元までそれを運び、咀嚼を見届ける。贅沢な人だ。少し羨ましかったかもしれない。

 

25歳頃、1年間くらい絵を描いていた。最近はまったくである。当時、〈絶果〉というシリーズで林檎・プラム・柘榴の絵を描いた。わたしが好きな果物たちの絵。手元にあるのか誰かにあげたのか、それらの居所にピンとはこないけれど、それぞれがどんなだったかは鮮明に思い出せる。

とはいえで、GoogleDriveを漁るも、当時の作品のリストも誰に譲ったかもわからない。スプレッドシートとかで管理していなかったけか?。んでもって数年ぶりにFacebookを開いた。たしか当時描いた絵にテキストを添えてアップしていたはずで。それはすぐに見つかった。いちまい、いちまいにそこそこのテキストを書いていた。昔、交友のあった人々からのコメントや当時を絵をあげた人からのメッセージとかがそこにはあり、あああであった。労働に人生が満たされるのが嫌で睡眠時間を削って絵を描きはじめた。労働がいろいろ無理になって、絵を売って生活したりもしたが、なんかそれも違う気がして結局、労働者に戻った当時。わたしがまだそこはかとなく人間交流をしていた当時。

 

宛もなく書き始めたこれ、なんか違う。宛はあった方がよかったのか、リハビリなのかである。むずのすけ。

 

柘榴は味も見た目も食うための作業も好きなんだけれど、食ってる自分も多分好きなんだと思う。日常で柘榴を食ってる人を目撃したことがないから客観的な柘榴を食っている人がかっこいいってのがあるわけではないんだけれども、柘榴を食っている僕は僕からしてかっこいい。赤いし。ネパールの砂埃にまみれながら食った柘榴、インドの道端で食った朝飯としての柘榴、大久保で買って来客と食う柘榴、どの柘榴もかっこいい。柘榴はかっこいいんだ。

『パワーチキン』橋本ロマンス×サエボーグ

20260211 『パワーチキン』橋本ロマンス×サエボーグを観た。

進んで行きたいとは思わない地、池袋。寒いし、ポスタービジュアルも苦手(生物でいちばん鳥、特に鶏が苦手である)だし、夜だしでキャンセルしそうな身体に酒を入れて勢いを付けて電車に乗り込んだ。『饗宴/SYMPOSION』の橋本ロマンスだからってのも勢いに身を任せられた要因だった。

 

 

以下、備忘録

 

●慣れ/なさ

(体感的に)長い暗転の後にパフォーマンスが始まる。闇、自然音、虫の羽音。ひっくり返ったスカラベ(キャラクター名:プーリンセス)。名前のある人間身体がラテックススーツを被っているため、一般的な人間よりも大きなスカラベ。暗転からのライティングの中でもがくスカラベ。慣れないを引きずるオープニングで、ひとつの見方が僕の中に湧き上がった。

徐々に登場するキャラクター達。二足歩行が可能な牛(サエビーフ)、羊(サエシープ)、豚(サエポーク)、四足獣ではない鶏(サエチキン)、そして7匹の四足歩行の豚たち(サエポーク)。(これらのキャラクターは羊を除いて、食用肉としての英語があてられている。)遊園地のキャラクターのように溌剌とした二足歩行の獣たち、それらとどこか交わらない鶏、二足歩行可能な豚と対象的な私たちが現実世界で目撃可能な四足歩行の豚の集団。リアル/ファンタジーな振る舞いと、ファンタジーに捉えられるラテックススーツの獣たち。得に四足歩行の豚たちを普段から食しているはずなのにグロテスクに感じてしまうのは歪な慣れを眼前にさせられていて。

そして現れる三体のパワーチキン。四対の脚と三(あるいは四)対の羽を持つ、羽のないひときわ大きなパワーチキン。冒頭に書いた通り、私が生物の中で一番苦手なのが鶏である。全くではないが、鶏肉を食すのも得意ではない。羽がない、ピンクのスキンに、スーパーで並ぶ「手羽」や「鶏もも」それら可食部を異様なまでに増やされたグロテスクなチキン。私にとってグロテスクの極みであった。

●階層

明らかに特別感のあるパワーチキンたち、二足歩行が可能な獣たち、鶏、四足歩行の豚たち。それぞれの振る舞いから客観的に階層性を見出してしまう。獣たちのヒエラルキーだろうかと考えていた瞬間に、(見えない支配者による)人工的なホイッスル音が鳴る。その音に、二足歩行以下の獣たちは恐れおののく。ああ、ヒエラルキーの頂点には管理者としての人間がいるのかと気付かされる。全てがメスで構成される獣の集団はあくまで人間の合理によって形成されたものだったのだと。

そして、人間を除いた獣たちの中に見出したヒエラルキーもただそれだけではないことが見受けられる。四足歩行の豚のうちの一匹が内蔵を垂れ流した状態に陥る。パワーチキン達による儀式的な行為によって、復活する。搾乳される牛、乳が肥大化した羊、肋周りの肉がそげた豚、それらも後にそれ以前の害されていない身体へと復活する。

あれはケアなのか、(愛なのか、)人間の合理が産み出したパワーチキンに設計時に組み込まれた何らかのプログラムなのか。

●鶏(サエチキン)

それぞれの獣たちが、人間の食のため(肉、乳、生”産”)の獣であることからもメスであることが明らかである。鶏は中盤で産卵をする。しかし、終盤で産卵しかけるのを踏みとどまり、結局産卵に至らないシーンがある。人間の食のためのメスとしてあることが当たり前であったその中で、鶏の自我が見えるシーンが個人的に好きだった。

そもそも、獣たちの中でいつもどこか周縁的だった振る舞いや、役者身体が鶏だけ前後逆だったりしたのもなんか個人的に好感だった。

●慣れ/なさ2

パワーチキンの慈悲的なそれを補強するものとして、パワーチキンが自らの身体をオーディエンスに分け与えること、最終的に削ぎ落とされた身体に現れるハートのマークがある。広義の愛がちょっと苦手というかよくわからないのでそれは置いておくとして、オーディエンスへの身体あるいは肉の分配が自分的に結構衝撃だった。最前列にいたために、私は肉の分配をうけるうちのひとりになった。開演当初は忌避感しかなかったパワーチキンという主体から分配された脚。リアルなそれが精肉店にあったら頑として視界に入れないようにするそれを両手で受け取る。微かに香るラテックスの匂いと手触り、中に詰まった空気の感触。終演までそれを両手で抱えていることで、グロテスクだったはずのパワーチキンに慣れを感じてしまった。(良くも悪く)慣れ/なさってなんだ?がぐわんぐわんだった。

スカラベ、三位一体あるいは逆ケルベロス

度々登場するスカラベ(キャラクター名がプーリンセスと、プリンセスを想起するため恐らくメスである)。スカラベなので大きなうんちとそれに群がる二匹の蝿も登場する。天井から降ってくるうんち。質感としても、見慣れているものとしても、作中で一番”リアル”だったのがうんちだった。スカラベといえば、再生とか創造とかで、ああじゃあ、うんちは食されるものの最終的な死か?であった。でもスカラベいるし、自然が豊かな舞台だったので、廻っているのか?的な。

三体のパワーチキンは自らの肉を削ぎ、オーディエンスに分配した後に、うち二体の頭がもがれ、頭を持つ一体に連なる形に変形する。元々に戻ったのか(三位一体的な)、あるいは変化したのか(ひとつの身体にみっつの頭のケルベロスの逆か)。パワーなのか、生と死の狭間の逆説的な番人なのか。生と死、パワーチキンのその本質の掴めなさを感じた。

●エンディング

パワーチキン達を除き(いやパワーチキンも本来ないはずなのにあった身体を削ぎ落としたことで、究極的な本来の姿と言えるかもしれないが)、獣達がオープニングと(同じ)身体を再獲得した状態で、クラブミュージックのようなハイテンポの音楽の中で溌剌としている。あの世界狭いは、あらかじめ設計されたユートピアか、あるいはディストピアから抜け出す第一歩か、(前述の鶏の産卵の拒否から僕は後者の雰囲気を感じているし、解放だよな!)で終わる。

ーー私たちはパフォーマーの身体表現それだけをみて、ラテックスの皮膚のしたにある様々な在りようをまなざせない(まなざす許可を得ない)ことはもうちょい深堀りたい。

 

●おまけ

『饗宴/SYMPOSION』の橋本ロマンスへの期待で観に行ったので、想定していたパフォーマンスではなかったのはそうなのだが、言葉のない獣あるいはモンスター/怪獣たちのおりなす80分で(”人間である”(私の意思とは別として、登場キャラクターからしたらまごうことなく人間・・・))自分がどう観て、感じるのかを考えるには十分な内容だったと思う。


そしれ、改めて以下を読み直したいと思った。

『荷を引く獣たち: 動物の解放と障害者の解放』洛北出版
スナウラ・テイラー (著), 今津 有梨 (翻訳)

『荷を引く獣たち――動物の解放と障害者の解放』、スナウラ・テイラー