『野生のしっそう--障害、兄、そして人類学とともに』
猪瀬浩平、ミシマ社
ブクログの登録順を遡った限りでおそらく僕は紀伊國屋書店でこの本を手にしたのだろう。一緒に買った本は以下で、我ながらいい買い物である。
『ひとでなし』星野智幸
『スピン 第9号』
『ミャンマー証言詩集 いくら新芽を摘んでも春は止まらない』コウコウテッ
『感情の海を泳ぎ、言葉と出会う』荒井裕樹
(Twitterの僕だけ#の”#ウェルカム本棚”続けていればよかった)
尊敬している友人のポストがきっかけで手に取った気がして2年弱、積読だった。他の人と本を持ち寄ってあーだこーだしようで、読むかになって読み始めた。そこそこ長い無職期間と正規雇用をいったりきたりしながらの人生、6年ぶりに連日出社となった初日の通勤電車で読み始めたけれど、労働と行き先の決まった電車に絡め取られながら読むのはなんか違うとなって、結局、自室の床のうえで身体をぐにゃりながら読み進めた。
普段の僕は読書の時に節操なく付箋を貼る。何もせずに読み進める時もあれば、黒のボールペン、シャープペンシル、赤のダーマトグラフで線を引くこともある。あーだこーだの人は本にドッグイヤーをしていた。ドッグイヤーだと行ではなく面(ページ)への痕跡になる。面なので、読み返しの時に過去の自分を遡る、あるいは探る的なことを言っていて、なるほどなな他者身体と時間感覚だと思った。ちょっとやってみようは慣れ親しんだ自身身体からのわずかばかりでの逸脱であるかもしれない。
だからか、今回の読書はいつもの自分(付箋)とまだよく知らぬ他者(ドッグイヤー)になった。たくさんの付箋と思いの外増えたドッグイヤー、表紙を表にした時に左肩が浮いている。付箋の記憶はたどりやすいので、今回はドッグイヤーを辿ってみる。あまり時間が経っていない過去だけど、少しでも過去の自分と日常の断層はどんどん深くなっていくから。
最初のドッグイヤーはP.53。慣れなさのためらい故か、意外とページを経ている。
P.53「それはまた、障害のある人とない人の違いではなく、本来、誰であっても意思疎通などできていないかもしれないと想定しながら、それでもともにあることができると考えることである。」
P.61「そんな「正気のsane」空気があったから、兄はご機嫌だったのだとわたしは感じる。」
P.68「障害のある人がいると思っていない場所に、障害のある人がいる。そこで起きた出来事を障害を理由に説明しない。自分たちと性質の異なるものとして説明するのではなく、自分と共通するものとして語る。もちろんそれが正しいのかはわからない。」
P.70「・・・ただ単に、「自分の存在に気づいて欲しいだけかもしれない」ということを思った。」
P.140「兄は突然大きな声をあげ、飛び跳ねる。カリヤサキさんはそこに兄のダンスを読み取り、音楽ライブでダンスする自分とつなげ、自分と兄がのっていくリズムの違いを見出していく。」
P.142「・・・その一見「あたりまえなこと」の背後に、人を恣意的な基準で分断し、それを納得させていく管理のシステムが存在することです。そして、そのシステムを揺さぶっていく端緒は、生々しい感情であり、身体感覚です。「こうこう、いく」と兄が言い続けることが、兄弟を、家族を、高校を、教育を、そして社会を揺さぶり、それまでと違う回路で、人と人、人とものごとを結び付けていきました。」
P.165「わたしと同じように、車内で隣り合わせる人びとが同じように孤独な生を行きていることを想うとき、孤独であるわたしと孤独である隣人との間に、かすかな連帯がうまれる。オジェはそれを「孤立なき孤独」という」
P.177「だからとんでもない力を解き放つのは、兄自身であり、わたしや周りの人間ではない。」
P.182「兄の行為を物的欲求で捉えるのも、それすらない異常な行動と捉えるのも、それは「健常者」を自認する人の傲慢に過ぎず、そこに知的欲求ーー知への勇気ーーを読み取ったときに、わたしたちは同一種の人間の多様性ということを、本当の意味で理解できる。」
P.197「・・・「俺の話を真剣に受け止めてください。こういう自体がなぜ起こったかわかりますか。障害者の言葉を聞かないわけだよ。聞かなくてもいいというばかりに、差別ということをやったわけだよ」と叫んだ。」
P.221「・・・ついにわたしは、「あなたの言動の一つ一つが父の尊厳を傷つけている」と抗議した。」
P.234「誰かの解釈や思いやりや差別によって、言葉を与えられるよりも前に、全身の、全力の運動によって自分自身の意志を表す。それはろくでもない世界から逃げることであり、新たな世界を求めることでもある。走り出す身振り自体が、新たな世界のあらわれそのものでもある。」
P.243「わたしが感じた苦痛と、兄が感じた苦痛は別のものであるが、どこかでつながっている。つながっているところと、ずれているところと、その両方が重要である。」
P.247「風がビュービューと吹けば、ときに兄は跳びはねて風と一体化する。兄は世界を嗅ぎ、動き、感じる。」
P.265「兄が世界を撹乱しているのではない。兄は〈誰か〉や〈何か〉と世界を構築し続けている。」
P.268「兄の経験や、兄の思考の仕方を追いかけながた、わたし自身の思考の仕方が何かを問い直す。」
P.279「わたしが生きていることは、本来、ヒリヒリとした自由の中にある。」
P.280「しっそうする兄は、街に迷っている。世界に迷っている。さまざまなことが理不尽に起こり、彼の存在を勝手に意味づけられてしまう世界で、それでも彼は世界に身をさらす。」
ドッグイヤーを書き出してみて、冒頭に書いたドッグイヤーの機能を自ら剥奪してしまったことに気づいた。これでは付箋と同じである。むずむずである。
ここからは脈絡なく。
”野生”だけを取り上げれば、マヴとの初対面を思い出す。高円寺で終電をなくして、僕の部屋のある東中野まで歩く道すがら、出会ってまだ数時間だし散々酒を煽って、しかも多分僕はまだよそ行きの顔をしてはずなのに、しかも初対面で彼は僕をこう描写した。「繊細さと我の強さが同居した空気感があってものすごく寛大で優しい凶暴な野生動物」と。理解できない他者として突き放すでもなく、わからなさの曖昧さを許容するその描写に僕から彼への信頼はじゅうぶんなものになったのをいまでも鮮明に思い出せる。
私ははじめ、その紹介文から、”きょうだい”としての語りを前提に読もうとしていた気がする。そう読むことはもちろん可能だが、それ以上?に、”きょうだい”としての語りではなく、兄と弟(著者)という関係がどこまでも続いていく。
これは極めて個人的な感覚なんだけど、”間”を”あわい”とするの、ずっとうっすら胡散臭い気持ちがある。
家族。一緒に暮らしたのは、母、父、兄、姉、祖母である。共働きで忙しかったおやたち、年の離れたきょうだいたち、好きになれなかった祖母。亡くなった祖母を除き、かつて一緒に暮らした人々とは数年にいちど、しかも一瞬会うくらいの距離に落ち着いている。一人暮らしをはじめて12年以上、世界をともにし、線を絡めあう他者は僕にとっては友人たちがそれである。それぞれの生がある友人という関係のなかで、僕はその世界や線をもうちょい頑張っていきたいかもしれない。
土。もらったナスとピーマンと紫たまねぎ。それらが育った土と育てた人びとのことを聞いておけばよかった。
言葉の絶対さに希望すると同時に、相対的に言葉を信頼しきってもいない。言葉は尽くせないものだと思っているし、その絶対性に依るほどには私と他者の地平が同じではないと感じている。だからかもしれないが、それぞれの歩みを無理にあわせずに散歩をしたり、料理をして一緒に食ったり、相手の心臓の鼓動に耳を傾けたり、夜の公園の遊具で遊んだり、本を読む姿を眼差したり、踊ったり、そうしながら私は少しずつ他者を知ろうとしてしまう。
そして私は沈黙を選択することを躊躇わない。何度かの問いかけに対し僕は沈黙で応答した。彼の不可解な表情を見て僕は沈黙を破り「私には沈黙する権利がある」と応答した。
「闘士」について知っていきたい。
「兄」と著者(と私)。著者の言葉によって描写された「兄」の姿(それは生き方かもしれないし、振る舞いかもしれない)に共感というか自分との共通点というか、そういうのを終始感じていたように思う。障害者(この語は知的障害や精神障害、身体障害や内部障害など多種多様なそれらを時に見えにくくしてしまうこともあるが)であること、としては「兄」と私は遠くながらも地平を同じにしているという気持ちがある。とはいえ、健常者っぽくほとんどの場面で社会をパスできてしまう私でも、本の中で描かれる限りの筆者では微妙にその地平にズレがあるように感じる。学者であり、「弟」である筆者とも私の地平は同じではない。それでも生活や社会から向けられる眼差しや態度としては、私は筆者に近いところにいるだろう。けれど、「兄」が身体で表現することは本にかかれている筆者の感覚よりも「兄」の感覚に自分の感覚や過去を重ねられた。
闘争の歴史と今を生きる多様な他者たち。私は闘える側にも、闘争のイシューの側にもいれてしまう。マジでクソなこの社会、一緒に生をやっていく人々との関係性も、ちっとでもマシな社会のためにも、生活も闘争もやっていきたい。