2025年8月29日金曜日夜、三鷹芸術文化センター・星のホールで、いいへんじによる『われわれなりのロマンティック』を観た。
私のためのおぼえがき。演劇をきっかけにはしているけれど別にこの演劇だからじゃないことも書くと思うから、すべてが感想ってわけではない。
公演は9月7日(日)まで。チケットまだ買えるよ。
==作品情報==
STORY
大学のフェミニズムサークルで出会った、クワロマンティック*の茉莉と蒼は、恋人とも友人とも名付け難い、親密な関係を築く。
卒業後、編集者となった茉莉は、パートナーシップをテーマにしたインタビューを企画し、周囲の人々の悩みに向き合う。一方で、自分たちの関係については、いつのまにか言葉を尽くさなくなっていた。
やがて、二人の「好き」の形は、ある出会いをきっかけに、少しずつ問い直されていくことになる。
*自分が他者に抱く好意が恋愛感情か友情か判断できない/しないこと。
CAST
小澤南穂子、小見朋生、川村瑞樹、藤家矢麻刀、百瀬葉、冨岡英香、谷川清夏、奥山樹生、飯尾朋花
声の出演
近藤強、能島瑞穂、浅井浩介、実近順次、川隅奈保子、端田新菜、山本雅幸、タナカエミ、田島実紘、宮地洸成、竹内蓮、波多野伶奈
STAFF
作・演出:中島梓織
音楽:野木青依
美術:伊従珠乃
照明:中村仁(黒猿)
音響:大嵜逸生
スタイリスト:カワグチコウ
演出助手:坂本沙季(明日は、寝たくない)
舞台監督:石橋侑紀
音響操作:福田彩花
大道具制作:土田しほり、成瀬柚月
舞台協力:小野寺豊、岸川卓巨、高橋英司、坂本遼、佐々木智史
音響協力:近藤海人(かまどキッチン)
舞台写真撮影:月館森
舞台映像撮影:松本佳樹、北林佑基(世田谷センスマンズ)
マリンバ録音・・編集・一部編曲:林翔太郎
当日運営:宮野風紗音(かるがも団地)
制作助手:中島悦子、木香花菜
制作:田中遥、石本秀一
ジェンダー・セクシュアリティ監修:中村香住
宣伝美術:たかはしともや
宣伝写真:宮本七生
宣伝スタイリスト:カワグチコウ
(公式サイトより)
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ここから劇中のこと含まれるからネタバレってやつ。
セリフの引用は『悲劇喜劇2025年9月号』より
近しい時を生きた人々
ドレスコーズ『愛に気をつけてね』(記憶曖昧だが多分そう、志磨遼平なのは確か)にバトンタッチされて幕があがる。20歳そこらだった時の身体がぶわっと蘇ってくる。そこで描かれる様々が程度はあれど既視感であり身近であった。いまだに不可視化されやすい、誤解されやすい、差別・排除・暴力の対象とされやすいような人々。
正しさや綺麗事だけじゃなくて、構成も演技もできるかぎりの誠実さを感じた。
それでも、「感動!」「めちゃよかった!」「Eye-oprning!」「わたしの世界が描かれていた!」という気持ちがないわけではないが、観劇後の私は湯原千尋(作中に登場するキャラクター)よりももっと外側、周縁から観ていたような気分になってしまった。それは他者と対峙し続ける劇中の人々への羨ましさかもしれないし、取り戻すことが難しい過去の時間や関係かもしれないし、複雑な現実へのなにかかもしれないし、なんなんだろうで。あと、描かれた人々は私にとっては特別ではなくて生きてきた現実の人々と近かったし(そもそもそれ自体が描かれてこなかったでももちろんあるんだけれども)。そんで、たまたま同じ回を観ていた友人たちに声をかけることもなく劇場を後にした。スーッと通り過ぎたものにしてしまおうかとも思ったけれども、それでも観劇から2日間、頭から離れなかった。
だからポジティヴな感想でもないだろうし、たまたまこの演劇をきっかけにして書いているだけのこともあると思う。
描かれること/描かれないこと
私が描かれていたと感じたこと(網羅はしきれていないし、視方による):フェミニズム、ジェンダー、セクシュアリティ、ポリアモリーを含む様々なパートナーシップの実践、家父長制的な社会、偏見や暴力、ミスジェンダリング、すれ違い、差別・虐殺に反対するスタンス、抵抗の実践、都会(東京)と地方(茨城)、対話、希望、葛藤、後悔、矛盾、カッコ付きのユートピア(カッコ付きとしたのはジェンダーやセクシュアリティの観点ではフェミ研の部室は少なからずユートピアであっただろうがインターセクショナリティの視点に拡大するとそれでもユートピアであったかは判断できない)、フレキシビリティなどなど。
たった2時間、しかも社会への親和性が高いと言えない存在を主題にして、なくなく描けないことがきっとたくさんあるだろうと思う。だからこれも描いてくれってわけではなく、観劇をした人々がこの演劇をきっかけに何かを知ろうとしてくれるならへの祈り?願い?的なことだったり、私が生きている現実の話として書くならば、例えば、パートナーシップを選択しない/できずに生きる人々がいること、クィアな存在と密接な課題として病や障害、貧困・格差、法的な不平等があることとかとか。
エンディングの哲学対話のテーマが「これから、パートナーと、どんなふうに生きていきたいか」だった時、so farな私はそこにはいられないなと思ってしまった。いやそうなんだけれども、そうでもない、パートナーシップではない関係性やそれこそ名付けたくない関係性に勝手に開いていけばいいし、事実婚を終わりにすることを選択した凪や(しなくていいはずなのにしなくちゃいけない社会はクソは大前提で)同性カップルとして歩むことを決意した香織と理子の姿は、私を含めた現実の”私たち”にとって応援したい姿であったしで。
何を言ってもいい
劇中で何度か対話のルールがセットされる。8つあるルールのうち、1つ目にあげられるのが「何を言ってもいい」である。劇中のコミュニケーション全体のその雰囲気が感じられる。それは基本的に安心できる関係性や、仮に間違ったとしても指摘をしたり、対話をしたり、行為者が改善をしようとする希望があってだったりもする。だからこそ「何を言ってもいい」はちゃんと難しい。対話の場ではないけれど劇中では自身の「言ったこと」を後悔し、即座にあるいは時間をかけて修復をはかろうとする姿がいくつかある。
少なくとも私にとって対話することはとても様々なエネルギーがいる。クィアな人々とのコミュニケーションであっても他の社会的マイノリティへの偏見や否定的な意見を耳にしたり、無関心があったりするし、それこそラベリング的なことで言えば勝手に「シスゲイ男性」とされたり「健常者」とされる。直接的でなくても、文脈としてそう捉えられた時点で、対話を諦めるには十分だったりもする。私は属性が多いのでより特権的なあなたは発話しないでくださいとかは全然ないしむしろ私が誰かの発話を阻害してしまうことだって全然ありうる。でも、だからこそ、「何を言ってもいい」にはなれないにしてもできるだけお互いが安心して発話できるように、学ぶことをやめず、考えることをやめず、変容可能性を模索し続ける他者関係を目指していきたい。
柔軟性(flexibility)/流動性(fluidity)
前段で変容可能性と書いた。ジェンダーやセクシュアリティに限って言っても変容可能性はあたりまえにある、それを劇中の茉莉は実践していた。他者との関係性が変わっていくとのと同じように?ジェンダーやセクシュアリティは変容していいはずである。クィアな生を生きていた人が諸般の理由からヘテロノーマティヴなライフタイムを歩んでいくこともあるだろうし、経験に即さないとしても未来への可能性の観点や政治的観点からバイセクシュアルという名乗りや実践をやめパンセクシュアルであったり、クィアという名乗りと実践をしてくことだってあたりまえにあり得る。セクシュアリティを例にしたがもちろんジェンダーだって変容可能性がある。変容することはそれまでが嘘であったことにはならないし、変容の先にまた変容があるかもしれない。現実でもあってもなかなかにそういった変容可能性については厳しい雰囲気を感じるし、ましてや作品の中でセクシュアリティの変容が描かれることを少なくとも私は目撃したことがなかったと思う。変容する主体が描かれ、それをそうだよと言ってくれる他者がいることは希望であった。
パートナーシップ
”クワロマンティック”の話でももちろんあるんだけれども、私的には”パートナーシップ”についてを強く感じる演劇だな〜って思った。事実、劇中の登場人物は何らかの形で他者とのパートナーシップを実践している/いた。あとこれ僕的には重要なんだけれども、アロマンティックである千尋の存在。千尋が私的にはいっちゃんでかい存在だったので。それで?パートナーシップについて書こうと思ったけれど、パートナーシップではない関係性についてしか私は書けないし、別にそれは違うところで書けばいいやが今なので割愛。そういう人もいる。
ライフタイム
健常なヘテロノーマティヴを大前提としたライフタイムを規定してくる社会ってクソだよね〜〜
オーディエンスとしての現実への緊張感
いいへんじ『われわれなりのロマンティック』が繰り広げられる劇場もちゃんとあたりまえに、”フェミ研の部室”のような”ユートピア”では決してない。私がひとりでいられる部屋、信頼している人々といられる部屋のような”ユートピア”ではない。玄関を出たら、SNSを覗いたらそこは現実である。別にこの演劇に限ったことではないけれど、私にとって笑えないシーンであっても客席のどこからか笑い声が聞こえてくる。私が笑えない一方で笑える人もいるのが現実であって社会である。そんなことはあたりまえで、だけどそれでも、その現実にちゃんと身体が緊張する。演劇の場に限らずに、そういった緊張を日々おぼえながら生きている人々がいる。
(ヘテロではない)性的接触/性行為を描くこと
ことさら演劇で性的接触/性行為を描写するのって素人目でもすげえ難しいんだろうなと思う。事前に「性的接触を示唆する描写」があることはトリガーワーニングされていた。劇中では千尋と茉莉が音楽をかけ踊るシーンや葵が千尋にアセクシュアルであることを告白するシーンからそれらが想起される。前者のシーンはあくまで観客(私)の推測する限りであって性的接触/性行為があったかは定かではない。仮に性的接触/性行為の比喩としての二人の踊りであったとしよう。ヘテロな関係ではない人々の性的接触/性行為はどのように描写が可能で、それはヘテロではないセクシュアルな欲望を持つ人にポジティヴに作用し、同時にヘテロノーマティヴを当たり前に生きる人に消費されることなく撹乱の作用をもたらすことができるだろうか。別に答えもないし、こう描いてくれもないし、そもそも性的接触/性行為のあり方なんて千差万別である。私がなにかを描写するわけでもないのだけれども、ヘテロではないセクシュアルな欲望も持つ主体として、プライベートな空間においやられてきた歴史を持つヘテロではない性的接触/性行為の可能性について考えていきたい。
湯原千尋
冒頭に演劇への第一印象として”スーッと通り過ぎたもの”として書いたけれども、ちゃんと向き合いはじめたらそこそこ書くことはあったし、いちばん?ぜんぜん?スーッととおりすぎないものとして湯原千尋がそこにいた。
湯原千尋(演者:飯尾朋花)
:ノンバイナリー。アロマンティック。パンセクシャル。フリーの”カメラマン”として働いている。川端の紹介で茉莉と出会う。(キャラクター紹介より。””は筆者による。)
思い返せば、鑑賞者が千尋という存在を認識しないまま、千尋の語りから物語が動き出す。そして劇中唯一、時間経過の説明や俯瞰的・客観的な語りを行い、劇中から「われわれなりのロマンティック」を眺めているののが千尋である。
目でも、頭でも、いちばんその姿を追い、人生を想像してしまったのが千尋だった。”スーッと通り過ぎたもの”とした感覚は作品の主題や”主人公”が中心にいた時にそれを中心とした円のどこに位置している実感を持つかってことだったのかもしれない。そもそも私が社会や実際の複数での人間関係を考えることに、その必要がなかったり事実ではないにしろ周縁性、あるいは中心との距離を意識する癖があるからかもしれないが、それを千尋にも感じたからかもしれない。
劇中の登場人物で唯一シスジェンダーではない存在、俯瞰的・客観的な語りによって物語を進行させる存在、”死を身近に感じる”存在、アロマンティックである存在、パンセクシュアルである存在、それらは劇中の登場人物との関係性の中で同一のアイデンティティを共有できない存在でもある。(同じアイデンティティ同士だからといって分かりあえるわけでもなければ、共通のアイデンティティがなくてもわかりあえることももちろんたくさんある。)
千尋「わたしはいつかあなたを傷つける」
(第12幕・千尋と茉莉の会話)
千尋「まあでも、死んでるわけではなさそう」
葵「やめてください」
千尋「……あんまり、死は、身近ではないタイプ?」
葵「……ん?」
千尋「なんでもないです」
(第13幕・千尋と葵の会話)
葵「自分に足りないところがあるから、もう一人、パートナーがいるのかなとか、」
千尋「ああ」
葵「思っちゃったり、しませんか」
千尋「……しまーす」
葵「そうじゃないとは、思うんですけど」
(第14幕・千尋と葵の会話)
これらの千尋の発話は千尋がどう過去をサヴァイヴしてきたか、傷つき・傷つけながら生きてきたか、多くは語らない千尋だけど、だからこそ、それを想像してしまう。諦めそうになる千尋に向き合おうとする茉莉や葵、楽な道ではないだろうけれど3人の未来を歩もうとする姿にーー。
そして最終幕、千尋が不在(同じ空間だが部屋が別)の場での葵と茉莉の会話。
茉莉「でもね、これだけは変わらないっていうのはね、」
葵「うん」
茉莉「よくも悪くも一番、わたしが心を動かされるのは、これまでもこれからも、あなただと思う」
(第15幕・葵と茉莉の会話)
私は不安な方向で胸がキュッとした。私が受け取った文脈を意図していないかもしれないけれど、3人の関係性の中で、”心が動かされる”という大きな他者へ/からの影響に”一番”があって、それを3人のうちの2人で共有されていることに。
けれども千尋と茉莉の関係性で言えばまた別の方向性・時間で動き始めているのかもしれない。
千尋「だから、」
茉莉「(振り返って)ん?」
千尋「わたしも、頼っていいですか」
茉莉「……当たり前でしょ」
葵「(うなずく)」
千尋「……じゃあ、(台所を指して)お願いします」
(第15幕・千尋と茉莉と葵の会話)
私は千尋が何人関係であっても、それがどんな関係性であっても、そもそもひとりで生きる選択をしたとしても、千尋が希望を抱ける世界を希求する。
アクセシビリティ
あんまり観劇しないから演劇界の状態はわからないし、コストや箱の成約など様々だと思うけれども、アクセシビリティ担保のための鑑賞サポートが充実していた。
詳しくは公式サイト・サポートを見てみてだけど、ひとりでも多くの人が観劇を諦めずにすむ社会になってほしい。
公式サイト・サポート:https://wareroma.studio.site/#support
俳優:川村瑞樹
果てとチーク・つづきの公演『きみはともだち』で観た以来ぶりの川村瑞樹さんの演技。演じるキャラクターによるところもあるだろうけれど、今回もめちゃくちゃ素敵な俳優さんだった。なんであんなにかっこいいんだろう。
次に出演する演劇ないかなでちょうど見つかった、果てとチーク『だくだくと、』を心待ちにしている。
果てとチークについての以前の自分メモ:感想 果てとチーク・つづきの公演『きみはともだち』作:升味加耀 - 角部屋日記
自分語り(仮にこのテキストを読んでいる人がいて、自分語りとか別でやれって言う人は読まないでね)
冒頭に書いた「それは他者と対峙し続ける劇中の人々への羨ましさかもしれないし、取り戻すことが難しい過去の時間や関係かもしれないし、複雑な現実へのなにかかもしれないし、なんなんだろうで。」ってやつ。こうして色々書いてみるとやっぱそうだったかもしれない気持ちをこの演劇との距離ということにしてしまっていたのかもしれないなと改めて思う。別にそれだけじゃないのはすでに書いていること含めてだけど。
一方的にわからなくなった関係を避けたいと思っていた恋にして終わらせたこともあったし、他者から向けられる(恋愛関係に限らない)でかい感情が苦手で飄々としてしまうこともあった。自他ともに認める?私はあんまり他者関係がうまいほうではない。でもそれは人生ずっとそうで。あんま長生きはしたくないけれど、くよくよすんのもだいじだけど、ちょっと違う自分をやってみるとかもそれこそ変容可能性だし、今日まで生きてきたし、多分明日も生きているだろうしなので、ちょっとずつだなあである。
おまけ?ーーこのおぼえがきをしたためつつ聞いていた曲たちのをいくつか
イ・ラン『SHAME(Japanese Ver.)』
柴垣竜平『武蔵小金井』
のっぺら『そういえば深海魚』