角部屋日記

あったりなかったりすること

否定形によるセルフアイデンティファイ

(なんか、読み返したら出力にして30%くらいじゃね?である。熟慮を経て、書き直されるべきテキストである。)

 

とても当たり前のことだけれども、語られたこと以上に、語られなかったことという可能性は無限にある。そしてその語られなかったことについて、読み手である私たちは知り得ることが不可能であり、その語られさは私たちによってもたらされたものかもしれないと思考し続ける必要がある。

語り手が感じるかもしれない語りの不可能性は語り手以外のすべての他者によるものである。

それは、声ある主体を、より大きな主体が黙らせ、不可視化してきた過去に通じるものかもしれない。

 

たとえば、「私はゲイである」、「私はADHDである」で完結する"社会的マイノリティ"としての主語による語りがあるとする。語ることが可能になること自体は満開の拍手であり、そうであることを表明し書くこと自体、いや、そうであることを何らかの手段でリプレゼントすること自体が応援と賞賛になりうる現代である。それは、"そうであった"を実践してきた先人たちのそれと現代を"そうである"を生きる人々の功績に他ならない。

それは、"〇〇である"という、(被差別者としての言論/身体的危険性を未だに完全には払拭されていない)表出可能性である。"◯◯である"という社会的マイノリティ性の発露は、その裏に、それ以外は基本的に特権的マジョリティである、ないしは、表出不可能と自身が定める何かがある可能性を内包する。例えば、「私はシスゲイ男性」であるという語りは「私は健康である」あるいは「私は健康ではない:私は病者である、障害者である」といったような(あくまでここは、"健康/健常"を例示とする)可能性を内包する。重ねてになるが、これはあくまで想定可能性の高い、"病/障害"を例にとったものであり、そこには、"非/正規雇用"、"日本国籍/海外ルーツ"といった様々なダブル/マルチプルな社会的マイノリティ性の可能性を意図する/しない可能性が温存される可能性は多いにある。

そういったことに殊更に敏感な書き手は、自身を説明する時にある種のエクシーズとして、複数の"私は◯◯である"という書き方をするであろう。それは、大抵の場合、"私は◯◯である"という語りから翻って、""私は◯◯でない"と解釈可能にある。もちろんここで付言すべきは、それらへの配慮がある時点で圧倒的に信頼可能な語り手であり、語られない"◯◯ではない"についても著者の思考の範疇であることを期待できることである。

だとした時に、それでもたちあがってしまう主体として、"ではない"と"である"を語りとして選択不可能な主体という問題が立ち上がる。たとえば「ゲイであり、健康である」という語りに対し、「ゲイである」という語りはその主体の健康性は不明に留まる。その不明性を内包するかもしれない主体の語りによってそれが伺える可能性もあるし、仮にその不明性に"健康ではなさ"が本来的に内容される場合に意図的に、その"健康ではなさ"が不可視として帰結するかもしれない。

"◯◯である"という語りが、可視化と共感をうむ一方で、:"◯◯である"と語らない主体、あるいは"◯◯でない(という一般的に想定される健康な主体像)"から離れる要素を持ちうる主体への思考は容易に発生しうる。

 

ここで、決して"◯◯である"として語りうる主体への批判ではないことを名言したい。もちろんそういった言論が覆い隠す、マルチプルな主体というのはあるが、それ以前の、読みて・語り手への批判である。

 

これは、統計に基づかない個人的な感覚なので主張の強度はないが、社会的マイノリティとされる語り手の、そのマイノリティ集団の中でのマジョリティ性/特権性を無視した賞賛は常に批判的態度を持つ必要があると考える。既にマイノリティの側にいる時点でその声明は心身を削ったものであることに代わりはないが、それをマジョリティ全体の総意として捉えるか、マイノリティの中の個人史/ナラティヴとして個人から集団の幅での汎用的主張として捉えるかを読み手は責任を問われていることを自覚するべきだと私は思っている。それは抵抗言説としての"戦略"として、どう向き合うことが可能かというこでもある。

 

クィアの語り手として、ある種の制度的強者(健康で、首都圏に在住し、問題なく正規雇用につき、単一性愛者で、日本国籍を有し、等々)であることは、著者の表明なしにはテキストを"読み込む"ことでしか実感し辛い。もちろん、そういった書き手が悪なのでは決してない。どんなクィアとしても語られることが圧倒的に不足しているし、それは社会における不可視化が証明している。だからとして、それらを克服されるために、"当事者"の語りなくしては圧倒的に不均衡であり、社会が、"クィア"ではない存在たちがもっとできることは無限にある、である。

 

"◯◯である"という語りがあった時に、語られる"〇〇である"と同時に語られた"◯◯ではない"あるいは語られない/語ることに社会からのスティグマという形での"◯◯ではないない"があるということをただ言いたかった。

 

わたしは、クィアであり、日本国籍を有し、正規雇用であり、東京に一人暮らしが可能である。だがしかしそれと同時に、シス男性でありながら規範的男性像は徹底的に拒絶するし、精神/身体の健康性はその両方を害している主体である。

あらゆる"社会的マイノリティ"による語りには、その不/可能性が主体の中で未だに秘/隠するものとしてある可能性があるし、表出するそれらは主体自体を全として語っていない可能性が十分にある可能性があることを"小さい声"ながらここに書き残したかった。

 

ーーー

 

例えば、"ゲイではない"という語りには、"ゲイではない、しかしクィアである"という語りや、"ゲイではない、しかし、バイセクシュアル/パンセクシュアルである"という語り、"ゲイではない、そしてシス男性アイデンティファイが不可能であるがクィアである、という語り、"ゲイではないが、セクシュアルアイデンティは経験/未来として◯暫定的/変容可能性として・・・"という語りや、"ゲイではないが、・・・・・・"という多様な可能性がある。否定形としてだから、あるいはメジャーなラベリングとしては"現時点では"当てはまらないが、という語りの可能性は多いにある。社会的マイノリティとして、"市民権を得た"ラベルに安寧やアイデンティファイ可能性をおぼえる個人がいると同時に、それらによって、更に未だ名付けられない"漂流した"主体も存在し続ける。

 

ーーー

 

なんかもうちょいいい感じに、それこそ"共感"をうむテキストであれればと思いつつの、覚書きとしてここに留める。(こういうエクスキューズはマジョリティに向けばぬぬぬであるが、いやいやそうでしか表せねえあれやこれやがあるねんな!の両義でもある。)