角部屋日記

あったりなかったりすること

ドトールとペニーとひとりで(ちゃんと)生きていく/きたい

2023/12/02(土)

部屋(自室)は好きだけれども、作り置きが多い(チキンカレー、ナスピー炒め、ブロコチーノ、菜の花のおひたし)と食ってしまいそうだしダラダラ酒・煙草しちゃいそうな雰囲気だったのでいつも通りとりあえずドトールした。

日記を書きつつ、ZINEのテキストすすめつつ、『HIVとともに生きる』大島岳を読み進める。2時間経って離脱して、中野区立中央図書館へ。久しぶりの図書館、テーブル席は空きが0だし、暖房とカーペット臭でどっちにしろダウンしたのですぐにヴェローチェへ。中野駅南のヴェローチェはいつ来てもなんか活気がすごい。ドトールの作業を引き続き。また2時間経って、新中野まで歩いてサイゼリヤ。あんまお腹空いてないのに何故か来てしまったサイゼリヤ。赤ワイン(300円分)、辛味チキン、ディアボロハンバーグプレート、コーンスープ、ペンネアラビアータと絶対食えない量を注文してしまったのは多分最近観ている『孤独のグルメ』のせいだと思う。メイン?ひとさらで全然お腹いっぱいになるのに結局完食して気持ち悪くなっているからほんとうにいつまでたってもだな僕はである。そんでもって今、煙草休憩でドトールに来て、ヴェローチェの続きをしている。

 

先日のエジンバラポインセチア、『HIVとともに生きる』で語られる他者との関係性、昨日のマヴ妻夫(事実婚)、年末年始のみんな誰かといるよねの雰囲気?、今週末は人と会う予定がないこと、自分の日記にはよく友人(マヴ)が登場することについて考えた時の割りとちゃんと人間好きかもだね僕もなこと、作成中のZINEのテキスト、いろんなところで、他者関係がちらちらしている。

僕のひねくれている部分を摘んで無理やり摘出してみれば、マヴたちのパートナーが友達だったら何も気にしないけれど、パートナーが僕の知らん人だったら何も知らんままがいいかもなとか思ってしまっているんではないか僕は?と思い至ってしまった。

 

(前段)

僕はあんまり他者に対してロマンティックな欲求がわかない。どっかに書いたかもしれないけれど、20代が終わりそうな今で20代の10年弱を振り返っても告白に至るほどに他者にロマンティックな欲求を抱いたのは2人だけだったし、ややこいんだけれども僕がロマンティックな欲求を抱くのは出会ってすぐな場合が多い。そんでそこが入口になってしまうと不器用なのか何なのか、マヴルートを辿る人間関係と比較して明らかにミスったコミュニケーションを連発してしまう。しかも、自分が他者からロマンティックな欲求を向けられるのが苦手だなとなることが多いので自分が他者にそういしている自覚をおぼえた瞬間にいわゆる、自分がやられて嫌なことは他者にしちゃ駄目です!ですよね?も発動するのでとても厄介である。

(セクシュアルなフィジカルコミュニケーションのハードルはめちゃくちゃ低い(これは僕に対して向けられた場合で、基本的に自分から他者に向けることにはとてもハードルを感じる))

 

そんで話を戻すと、ロマンティックな欲求の対象となる他者もアンコントラブルな感じに近い感情なのだけれども、パートナー的な関係性が結果としてあったとしてもなかったとしても本当はマヴルートでやっていきたいと思っている。それは僕がパートナー的な関係性にあんまりピンと来ていないからかもしれないけれど、それ以上にやっぱり大前提でマヴになりてえがあるんだと思う。(パートナー的関係もポリアモリー的複数性の可能性はあるが人口が多くない)マヴの複数的かつそれぞれが個別的な並列的な感じがベストみたいな。

けれど多分世の中の多くの人々には、関係性にヒエラルキー(家族を筆頭に、パートナー、友人みたいな)があって、ヒエラルキーではないにせよ別口ではあるだろうで、まあそりゃこんな家父長制で自助的で家制度で婚姻の不平等がある社会だからまあそうだよねだが、やっぱ友人という関係性では担保できない諸々があるんだなと想像してしまう。家族やパートナーには可能で友人では不可能ないろいろがあるんだろう。もちろんその逆もあるだろうけれど、そこは友人という複数性がわりと解決しやすいだろうくて。

だとした時に、パートナーを知らないマヴについてはパートナーのことを知らないままでもいいかなとかも思ってしまう。思ってしまうけれど、マヴの生活の一部だし、マヴの幸せも願いたいし共有可能であるなら知りたいと思うから、そう思うと”知らないままでいい”は本当か?だし、大前提、自分自身についてもだし、他者のことなんて分かりきれないのに何を気にしてるんだでもある。

まあでも多分なんか、家族/パートナー/友人みたいな階層構造を本意ではなくとも感じてしまう(可能性)がちと心細いのかもしれない。(あんまこういうのぬんぬんしながら書いたことがないので、言葉を見つけるのがうまくいかないし、そもそも感じているいこと/考えていることとテキストとしてここに表出しているものがちゃんと一致しているのかも怪しい)

現実問題として、家族とは疎遠であることを選択してきて、パートナー関係にもあんま可能性がない身として、医療とか生活の支え合いとかの場面で今後困難が出てくるのかなあはぼんやりあって、別にそれを第一の目的にすることはないけれどだったらじゃあ友人間での相互サポートだよなであるが、割と周囲の仲良したちみんなパートナードだなのここらへの統計結果が嘘に感じるやんの率なのでどうしたもんだである。

 

 

ってここまで書いていて待ち合わせに向かうために中断

 

 

3年振り2回目のパイセンとエジンバラで茶をしばく。

話の中で前述したことのような話題になり、自分の発話、相手の発話、お互いの応答の中からあまり考えていなかった発見や、自己の過去がふっと蘇る場面が多々あった。その時にひとつ気づいたのは、圧倒的に僕は自身が孤独であるという認識が強いようだということだった(それは僕にとってネガティヴではない)。それは僕の幼少時代の結果だとも思うし、他者に影響した結果が良くなかったこととかいろいろ紐づくものが多いらしかった。だから、いわゆる親密な関係性において、お互いの相互影響はありながらも、自分から相手に対する影響が強くなってしまうような関係性を避けているのではないだろうかになった。

 

最近構想しているいくつかのZINEとライフプロジェクト的な方針が見えてきてとてもいい時間だった。4時間ちょっともあっというま。

プロジェクト進捗を共有できるようにコツコツしていこうだ。

日記には残さない別のところに今日のことはフィールド・ノートとして残しておく。

 

とか言いつつ、考えかたも生きかたも全然変わるかもしれないのでとりあえず現在地のテキストを残していこうだ。

 

今日の僕的

SUNNY CAR WASH - キルミー

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