角部屋日記

あったりなかったりすること

書き途中で、いつか続きを書くかもしれないための書き途中。

更新①:2024/01/22
更新②:TBD

 

書き途中で、いつか続きを書くかもしれないための書き途中。

 

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真面目な話に、真面目に「アホくさっ」って返答する他者がいたとして、

たとえば、あなたは僕をどう解釈する立ち位置にいてくれるだろか。ある人は僕のことを「単純」とか「わかりやすい人」といい、またある人は「全然わからない」「遠くにいる人」とか「飄飄としていて掴めない」と言う。どちらもたぶんそうであって、どちらを言われたとしても正直にそう言ってくれているとしたら僕は嬉しいと感じるんだろうと思う。

分かってくれているサイドに立つ人からしたらそれはたぶん言語や感覚が近い人で、(僕ですら自分がようわからんのに、なんでそんな簡単に分かってくれるん?もしかしたらわかる部分だけで分かっているかもしれんのにみたいなめんどいのはいったん横においといて)、逆に分からんサイドに立つ人はわからんのに一緒に居てくれるとか、わからん風になってしまっている僕のせいよなとか、わからんくてもわからん言ってくれるのかでもある。たまにわからないことが寂しくなるよと言われてしまうと、どうしたらいいんやろではあるが。

分からんにはたぶんいろいろ要因がある。僕が他者をわからんのと同じようなこともあるし、僕が他者に語らない僕というのが多分にあるし、違う人(わからんとは微妙に違う)として小さい頃からいろんな人に接せられてきたからもうそういう立居振舞が僕のデフォなのかもしれんとも思う。

ていうかそもそも僕は誰かに僕のことを「わかってほしい」とか「しってほしい」っていう欲求があったのだろうかでもある。たぶんあるんだろうなと思うし、そういう欲求を知らず知らずにぶつけてきたこともあるだろうけれど、自分でも本心かわからん理性に問えば、それは僕にとって難しくて、怖いことだよねと言ってくる気がする。(気がするとか言っている時点でほらほらほらであるが)

遠慮とか以前にそういう勇気(って言ってしまうとなんかちゃうねんけれどまあいまんとこそれが近い)がないなとは思う。そうしていいよみたいな安心感、ちゃんと向けられる他者はいたことは確かだが、それぞれの人生でじりじりと疎遠になっていくことにちゃんと抗ってこなかった。お互いがお互いを疎遠にしていくならそういうことなんだろうみたいなくそしょうもない気持ちがあったし、僕だけが相手の裾をいつまでも握っていてはいけないと割と思うし、自分がされたらリアクションに困ってしまってうまく対峙できなかったことも過去にあったような気がするし。

 

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「あーそーぼ」って言えたことがほとんどないって言うのはたぶん既に書いているし、中がよい人には伝えている。

思えば昔から人と遊ぶのが苦手だった。

みんな僕はちょっと不思議な人と思っているだろうなと思わずにはいられない10代だったし、みんながしていること(たとえばゲームとかボール遊びとかカラオケとか)に興味が湧かなかった。興味がなくてもその場にいるみたいなこともとくにしなかった。

鍵っ子?だったので僕ひとりで家に居る時に友達がおしかけ(約束もなく家に遊びに来る)てきた時は庭の砂利の音を察知していないふりをしていたし、親やきょうだいが家に居る時には近所の図書館を避難場所的にしてひたする本を読んで「あーそーぼ」を避けてきた。

大学生になって一人暮らしになると、わざわざ「あーそーぼ」をされずとも、ただ僕の家に友人たちが居るがデフォだったので、「あーそーぼ」以前にただ一緒にいるは全然できて、だから「あーそーぼ」をされることもないし、ましてや自分からすることもなく友人といることに慣れることができた。

労働者になってからが難しい時代の再来であった。とはいっても、休日に酒を飲んだり、労働後に飯を食ったりはむかしの「あーそーぼ」とは違って、一緒にやるハードルが低いし、大学時代の友人や会社の同期たちが向こうから誘ってくれるのでなんてこともなかった。

コロナが流行して、友人たちはそれぞれ労働やパートナー関係、新しい友人関係に時間を割くようになって、僕だけは相変わらずひとりでフラフラしているし、自分から「あーそーぼ」をできないまま大人になってしまったので、除々に会う人ってのが少なくなってきたなと実感する。

あといっちゃんでかいのは、自分が誘われた理由が何か目的があるわけではなく、ただ一緒にいよとか茶を飲もうとかがめっちゃ嬉しいのに、自分からそういう目的のない「あーそーぼ」で誘っていいのかなで永遠とにのあしを踏んでいるっていうのがある。

何歳になっても目的なく会いたいをしていたけれど、相手はそれでも大丈夫なのか、大丈夫だとして頻度はどれくらいが相手のペースとして適切なのか、とかを永遠まよって結局「あーそーぼ」ができないよ!ぐずぐずだよ!をしてしまっている。

 

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誰かに対する静かな祈り。祈りの対象となる他者がひとりで抱えているものを知らずに祈ることは誠実なのか?その祈りを知ることとなった時に、「私の共有できない抱えもの(burdenに近いものを想定)を知っても祈り続けてくれるのか、祈ってくれるだけなのか」みたいなところまで想像してしまうと、その祈りは誠実なのか、では祈らないという選択はそれはそれで誠実と言えるのだろうか、みたいな感じがある。

ひとりで抱えなくてよくなることが救いなのであればその一助になれたらいいなともちろん思うが、自分がそんな他者であれるのかも関係性次第であるし、僕によるところも多分にあるだろう。

祈らないという選択はやはり残酷かもしれない、シンプルな”祈っている”よりもっと、こう、なんていうか、「私には分かりきれないあなたがいることを前提にそれでも祈っていてもいいだろうか?もしその祈りが負担になるのだとしたら、祈ることはやめる。もし、あなたの抱えているものを知ってもいい時が来たら私はいくらでもあなたと向き合って、抱えることはできなくてもそれを知っている存在として祈りでもなんでもできることをしたい、という意味で祈り続けたい」と言うことができるだろうか。的な。

 

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なんかどれをとっても駄目だなと思うし、でもそれが僕だよなとも思ってしまうし、まだまだ人生むずいな29歳である。

でもまあこうやって、苦手だし怖いけれど、できたらいいなとは思っているんだを少しずつでも他者に伝えられるようになっていきたいなだし、面倒くさくてもちゃんと伝わるようにエクスキューズがたくさんなことに諦めずにいたいんだと思っている(今日時点)。

 

2024/01/22時点でのこのブログの僕的

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