「なんでそんなに服の背面に切れ込み入れてるの?」って聞かれて気づいたお気に入りのシャツが30cmくらい切れていたこと。古着で繊維が弱っていたせいかたぶんどっかに引っ掛けて切れていたみたいで、「はよ言ってよ」と言ったら「おまえのことだからおしゃれでやってると思ってた」と言われた。まあそう見えるならそれでいいかで気にせずに街中を歩いて帰宅までそのままにした。っていう些細だけどなんか忘れたくないかもなな親友との備忘録。
そういえば最近全然服を買っていない。フルリモートで服を着る機会が減少したのもあるかもしれないけれど、たしかに最近は「よし、この服を来てあの人に会いに行こう」みたいな気概がないかもしれない。何年も同じ季節に同じ服を着ているなあで思い返すと、記憶と服装のリンクが昔に比べて薄い気がする。服Aに対して紐づく記憶が多すぎるから服装と記憶の1:1関係みたいな思い出しが難しいのだ。別にどんな格好でも外に出られる無神経さ(大学時代はタンクトップに極ショートパンツで乳首もちんこもはみ出そうだよとか言われていたくらいに)だけど、会いたい誰かを思い浮かべながらクローゼットを眺めるとか久しぶりにしてみたい。服を買いに行こうかなだ。
最近の人生怠怠期(じんせいだるだるき)のせめてものあがきで、iPhoneのメモ帳になんか記録的なフレーズをメモしたりしなかったりしている。したりしなかったりかつ人生怠怠期なので改めて読み返してみても先週のメモですら何きっかけでそれ書いたみたいなのがいくつもある。例えば8月12日「ちゃんと寂しいとか、心配されるとか、ひとりで生きていかないとか」って書いてあったけれどちょっと意味がわからない。すげえ、なんだっけ?となっている。ドラマ『カルテット』でも思い出していたんだろうか?中村慎森が好き。
そういえばこの日は久しぶりに親友Kと会って、なんも考えずにへらへらできてなんか久しぶりに安寧な気分だったかもしれない。自分の人生に”寂しい”を照らしてパッと思いつくのは2つあって、1つ目は小学校低学年くらいの頃、基本家にひとりだったのに耐えられなかったのか、母親が労働に忙しいにすねたこと。2つ目は枡野浩一の『淋しいのはおまえだけじゃな』くらい。小さい頃から、家でも学校とかでもひとりのことは比較的多かったけれど別にそんなに寂しいという自覚があった気もそんなしない。
大学時代なんか学校にも家にも課外活動にもずっと誰かが側にいた4年間だったから寂しいとか思う暇なんて全然なかったなと思うと、労働者になって、ほぼ会社にいた新卒時代は別としてここ数年はずっと家にいるからひとり時間も多いし、親友たちは地方とか海外でなかなか会えないし、都内にいる親友たちもそれぞれの家庭を持ってとかで会う機会が結構減ってきたなで結果最近はめちゃ引きこもりしていたので、最近の人生怠怠期はもしかしたら”寂しい”も要因のうちだったのかも?とか思う。
そういう意味では僕も20年以上ぶりに寂しい的な感じだったのか最近?みたいな若干のタイムラグかつ慣れていない感情の可能性で、まじ?どうしよう?どうする?みたいな感じになってしまった。自分のことですら推測だからあくまでって感じだけれども。面と向かおうとすると、理性的?には慣れていないことすぎてどうしようになってしまう。
てか続く「心配されるとか」もあんまピンとこないやつじゃんで、更にどうしようになる。それも思い返しても人生でなんかあったっけになる。高校時代にひとりで海外行っていた時も、浪人しても、一人暮らししても、いきなり会社を辞めても、親にも友人にも特に心配された記憶がない。「まあだいきならね」と周囲も思っていただろうし、僕自身も楽天的なのかあんま何も気にしてなかったし。まあけど、だから別に自分では他人からの心配を欲する気はないと思うんだけど、って書いていて、この日親友Kがひきこもっていた僕を外に連れ出してくれたのとか、もしかしたら僕を心配してくれていたのかもで、なんかそういうこと?って今書きながらちょっと思っている。
そういえば高校の頃付き合っていた彼女が僕が4階の窓から身を乗り出していたりするとちょいマジ気味で怒ってたのとかも僕をまだあんま知らないから心配してくれてたのかなとかも思うし、自分の病気について告げた人からも確かに心配されたことあったなで、別に全然心配されることを必要としない人生ってわけでもなかったのかもと思う。けどそう考えるとやっぱあんま心配はしないでほしい?なと思うけれど、世の中の人たちはもっとお互いに心配しあう感じなのかなとかあんま考えてもたぶんよく分からないだろうことを思い始める。
「ちゃんと寂しいとか、心配されるとか、ひとりで生きていかないとか」の1、2についてちょっと考えてみたけれど、3つ目とかそろそろ無理ゲー感が出てくる。別に大切な友人たちはいるけれど、結構な確率でみんな”家族・パートナー”を持っている人々なので、なんか同じ基準で測られたらちょっと悔しい?気もするけれど、まあそりゃ友人としての僕と比べたら、時間的にも物理・精神的にも優先順位?的なものがあれば、やっぱ僕は”ちゃんとひとりで生きていきたい”方なんだろうなと思う。
むずいかな〜って思うけれど、けどそうやって生きてきちゃってのでどうしようもない感じもする。仲良したちとは何十時間だって一緒に居たいって強い気持ちもあるけれど、30手前で労働者しているとそんなことは全然できなくてじゃあそれはたぶん一般的には恋愛関係とか家族関係とかで、けれどそういうの全然想像できなくて。せめてなんか、てかちゃんとしてなくても全然よいんだけれども、”ひとりで生きていく”がもっと身近に、世の中に物語として存在していてくれたらいいなとかも少し思っちゃう。
てかそもそもの最近の人生怠怠期のでか要因もそういうのだったりもして、自意識過剰ならそれでいいんだけどたぶん複数人からいわゆる好意的なものを並行して向けられていたかもしれない上半期でそのどれもがちょっと物理的・精神的距離感として向き合えなくてLINEもTwitterもInstagramも離れてしまって、他人からのそういう好意になんで僕は向き合えないんだろうとうーんってなっていた(る)。自分から他者に向けてのそれは5年に1回あるかないかなんだけど、発生した時に自分がそうだから相手も同じ基準想定になって、自分が好意を向けるのもなんか申し訳ない?気がしてなんかやだなあでもあるし。まじで社会は友人ないし親友と家族・パートナーみたいなものの乖離がある感じだるみだなと思っている。むず。
30歳手前にしてやっと仲良しに自分から誘う的な行為が若干できはじめたと思うと、やっぱちょっと駄目人間!?もうちょい愛想よくするとか、自分から誘うとか、他者に興味持つとか、がんばれ〜と思う。とか思いつつ、最近あんまちゃんと喋れないし、笑い方がぎこちないしだからそれを脱してから挑戦!?とか思うとまたまたネガティヴチェーンじゃん!でもある。ぬんぬんだ。
ちょっと試しに、僕はいま”寂しい”かもしれないし、”心配”しあう関係とかを意識してみれば?をやってみようかなと思ったけれど、いま夜だよ!休みの午前中に考えてみ!てか誰か安寧できる人と一緒に考えてみ!って感じだ。またまたぬんぬんだ。
”ひとりで生きていく”ってちょー多義的だし、狭義のそれはできないし、したい訳でもないのは自覚あるけれど、なんか最低限”ひとりでもちゃんと生きていける”って担保してくれよ社会だよなやっぱ。
そんで、親友たちと近くで暮らしてたいなできればほんとに。
そういや全然脈絡ない思い出した話で、美術館・博物館行きまくった先週末、作品たちを目の前にして居た堪れない気持ちがちょっとあって、それは僕が最近全然何にもつくってなくて、焦燥感?的なものあるなだったな。絵でも、テキストでも、裁縫でも、木工でも、立体でも、やろうと思えばできる部屋なのになんでできねえんだろう的な。
他者のつくったものに対峙するときに、僕の経験と対比するあるいは圧倒的な存在にぐちゃぐちゃにされたいんだろうな僕はで、前者が圧倒的にできてないし、後者に出会えるなんて稀なので。これもこの人生怠怠期の要素かもしれないなあだ。
ああ、てか冒頭に起因は『カルテット』?って書いたが、これあれだ『違国日記』の最終巻を読んで書いたフレーズだ。を思い出したのでスッキリ。